加害性と向き合うこと、自分の被害と向き合うこと

kizu 性教育する知識が欲しい保護者の集会所
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日本リトルシニア中学硬式野球協会関東連盟が主催の中学生の野球大会で、グラビアアイドルが中学生男子の集団に襲われた事件について、考えたことを書いています。

加害性と、また自分の被害とどう向き合い付き合うかの話です。

大前提としてですが、これは重大な事件です。
「ちょっとハメはずしたいたずら」ではすまない話。
暴力であり、搾取であり、許されないことです。
性暴力であると同時に、たとえば将棋倒しになれば複数の死人が出ていた危険性もあります。
生徒たちは厳正な処罰を受けるべきとも思います。

その前提で、以下を書きます。

責任は大人にある

これは性教育の失敗であり、人権教育の失敗であり、安全性についての教育の失敗でもあります。
失敗したのはあくまで、子どもたちではなく、保護者・教師・社会環境を作っている私たち一人一人の大人です。
大人の失敗が、子どもたちの加害/稲村氏の被害を招きました。

その場で結局、子どもたちを止められなかったこと、
予防措置・安全性についての対策に不備なり不足なりがあったこと、
そもそも、あれが加害であると彼らが加害を働いてしまう前に教育できていなかったこと、
そしてこの社会が、大人に対してこそ、性暴力に甘い社会であるということ。

数年前、警察官がネット上で募集した複数人の男性と共謀し、1人の女性をホテルに軟禁して
後ろ手に手錠をかけ目隠しをして集団暴行した事件。
ありましたよね。
まだ記憶に新しいけれど、あの事件の加害者、処分保留で釈放されていますね。

もっと最近の話だって、伊藤詩織氏がどれだけの誹謗中傷を受けているか、
そして加害者がまだ守られている現状を見れば、いかに甘いかはすぐにわかることと思います。

私たちは子どもたちに、日々、社会とはそういうものであると学ばせてしまっています。

そういう社会を、そういう大人たちの姿を、子どもたちに見せてきています。
大人である以上、私たちはそのことに対して責任を持たなければいけません。

 

子どもに対してすべきこと

今回のことについて、教師でもなければ中学生男子の保護者になったことすらない私でさえ、
いくつか「しなければならない」と考えつくことがありました。

1、加害であると伝える

いたずらですむ話ではないということ。
性的な背景のある加害であること。
またあぁした暴行・脅威に対応することは、彼女の仕事ではない以上、搾取であるということ。
(しかも今回、どうやら始球式の仕事ですらなかったらしいとのこと……)
死人が出るほどの危険な状況であったこと。

全てを、しっかりと伝えてください。
その上で、どのような処罰をするべきなのか・彼らが受けるべきなのか、しっかりと考えてください。
できることなら、一緒に。

なお、怪我をした球児もいたとニュースになっていましたね。
軽傷だったそうですが
彼らへの保障もありますように。

2、大人らもペナルティを受け、償いをして、見せること

子ども以上に、大人こそが厳しいペナルティを受けてください。
たとえば子どもたちに反省文10枚書かせるなら、
子どもたちに書かせると決めた周囲の大人たちは
稲村氏と、反省文を書かせた子どもたち全員に対しても、10枚ずつ反省文を書いてください。

「反省文」というのはただのたとえです。
これにどれだけの効力があるのかは、私にはわかりません。

ただ責任の重さには、それくらいの差があると思うくらいでたぶんちょうどいいです。

その姿を、子どもたちにきちんと見せてください。

誰かを傷つけるとはどういうことか、罰を受けるとはどういうことか、
責任をとるとはどういうことか、
そして償うとはどういうことなのかを、子どもたちに伝えてください。

姿勢で、態度で示して下さい。
見本をみせ、手本となって下さい。

どうしたって一番は、まずは連盟の理事たち・保護者・教員たちでしょうが
本当は、私たち大人全員が何かしら考え、行うべきでしょうね。

どんな罰と償いが妥当なのでしょうかね。
難しいですね。
でも考えて下さい。考えましょう。

大人が考えきれないものを、子どもに考えさせることなんてできないですから。

3、他人の加害を見かけたときにどうすべきかを教える

これもね、とても難しいことと思います。
だって今回、あれだけたくさんの大人がいて、とめられなかった。
事態は起きてしまった。

もう何年も前の事件ですが
特急電車内のトイレで、女性が暴行を受けた事件がありました。
被害者は、加害者にトイレに連れ込まれるまでの間、周囲に何人もいたはずの乗客たちに助けを求めました。
けれど助けの手はなく、事件は起こりました。

周囲に大人がどれだけいても、助けを求めても、事件は起きました。

「加害者をとめよう」
「加害に加担しないようにしよう」
「助けを呼びにいこう」

きっとたくさんありますが、大人でさえできなかったことです。
今でも、必ずしもできていないことです。

そういう社会にあって、加害を見てしまった子どもたちは
今回近くにいた子どもたちは
どこかで「これはおかしい」と感じていた子どもたちは
どうすればいいと思いますか。
彼女に向かって足を進めずにいれば、それだけでよかったと思いますか。
どうするのがよかったと思いますか。
どうできると思いますか。
どうすれば、どうにかなったと思いますか。
どうにかなると、子どもたちは信じられると思いますか。

そういうことを、
まずは大人が考えて、子どもに伝えないといけないです。

考えて、いくつかの答えのパターンを見つけて、伝えること。
教えること。
態度で示すこと。

まずは、私たち大人からです。

4、「被害を受けたらどうしたらいいか」も伝える

女子だけでなく、男子にも。
自分が被害を受けたらどうしたらいいか。
どうやって、誰に助けを求めたらいいか。

たとえば性的虐待動画・画像にまつわる被害についてですが、
先日、被害児童の31.1%は男児であった、というニュースがありました。

男児の育児経験のある人であれば、男児も被害にあうことがザラにある、なんてことは
ご存知の方も多いことかと思います。
男児も、被害にあいます。

助けを求めるというのは、難しいことです。
きっと大人のみなさんにも、それが難しいということ、覚えがあるかと思います。

誰に助けを求めたら、具体的にどんな助けを得られる仕組みになっているのか。
大切なのは仕組みと、その確実性です。
その仕組みに、リスクがないことです。
助けを求めるまでのハードルが少ないことです。
その道筋が確かである、ということです。

私たち大人には、助けを求められた時の準備はできていますか。
その準備もしていないのでは、子どもたちに「助けを求めてくれ」なんて自信を持って言えないでしょう。
子どもたちが助けを求めることは、ずっと困難なままです。

 

子どもに対して、大人がしてはいけないこと

子どもたちに対してしなければいけないことがある一方、
すべきではない、と思ったこともあります。

1、子どもを罰するだけで終わること

繰り返しのようになりますが、今回の事件の根本的な原因と責任は、大人にあります。
加害した子どもを厳しく罰して・叱って終わらせる、なんていう、無責任なことは決してしないように。

私たち大人が、子どもに対して責任を持っていうということを、子どもたちにも示しましょう。

大人って、自分たちでも難しいこと、できないことを
すごく軽率に子どもに求めてしまうことがあります。
すごくいっぱいあります。

大人は子どもを教育するべき立場だから、という理由があるせいなのか
自分にはできもしない水準のものを子どもに求めても、正当化されてしまうことすらあります。

そういうのは、子どもたちから社会に対する信頼を奪います。
やめましょう。
少なくとも、やめよう、って意識しましょう。

2、加害児童の「心を折る」こと

「加害した子どもの心はしっかりと折っておくべき」
叩き潰せ、という意見を見かけました。

実は今回だけじゃなくて、未成年男子が性的な加害を行なったというニュースが出るたびに見かけます。

それは、感情のままに子どもを虐待することと同じです。
しつけではなく、虐待です。
教育ではなく、体罰と同じ類のものです。
暴力です。

教育として子どもたちに伝えてしまうものは、最悪の部類のものになると私は思います。
加害者を育て、生み出すこととほぼ同義の。

権力を持った、より強い者が甘やかされているこの社会で、
そのより強い立場の大人たちが、自分たち同士では許しているそれを、弱い者には許さない。
そういう姿勢を、教育として見せること。

それって、
社会的立場の強さ=正義、と教え込むようなものです。

大人なら許されていることだけど、自分たちは子ども=社会的な立場が弱いから許されなかった。
暴力的に心をおられ、屈服させられた。
保護者・教育者・「社会」にそうさせられた。

そういう学習をさせられて、そのまま素直に育って大人になったら、彼らはどのような人間になるでしょうか。

権力で、もしくはもっと直接的な力で、
素直に、
より弱いものたちを屈服させようとするかもしれませんね。
それが正しいことだと、感覚的に信じるようになるかもしれません。
自分にはそうする権利があるのだ、と思うかもしれません。
だって私たち大人が、社会が、そうやって教えたんですから、そう考えるようになっても何もおかしくないでしょう。

それは、社会的強者である「大人の無責任」そのものの姿勢です。

もし、彼らの「教育のために」という観点でものをいうのなら
せめて、ちゃんと、教育のことを考えてください。

3、自分の受けた被害の分まで攻撃してしまうこと

この国の女性で、性的な被害を受けたことのない女性の存在は、そう多くはないでしょう。
集団で暴力を受けた人、
その相手が男子中学生だった人もいるでしょう。

でも、その自分が受けた被害の分の怒りを、彼らにぶつけるのは違います。
彼らを生み出した、この社会・仕組みに怒るのであれば、それはその通りと思います。
その怒りは、社会・仕組みに向けましょう。
彼ら個人ではなく、社会・仕組みに。

ツイッターで

子どもらに軽率にあんなことさせた原因は大人にあるからな。大人の体たらくが子どもらに加害をさせたんだよ。男女問わないし、被害経験の有無も問わないよ。どんなであれ、大人の責任だよ。こんな社会を作ってる大人の一人であること、その自分の責任から逃げんなよ。お前であり、私のせいなんだよ。

と書きました。

被害経験の有無のくだりについて言及する必要はあるのか、という引用がつきました。
必要があると思ったから書きました。

ここの話は、すごく書きたくないものでもあるのですが
書かないと私の中でもけじめのつかない話のような気もしているので
今回、一度ちゃんと書いてみることにしました。

被害者が被害について語る声は、
私は”一般論”なんかよりも重きをおいて聞いているし、そうあるべきだとも思っています。
だからこそかもしれませんが
被害者が、自分の被害経験を持ってその暴力に正当性を持たせようという構造で話をするなら
私はそれには賛同しません。
賛同しない、ということを表明しておきたいと思いました。

被害者であることは、加害の免罪にはなりません。
被害者も加害者になり得ます。
被害者であることと加害者であることは、両立します。

誰かから被害を受けたことは、別の誰かに加害していい理由になりません。

上で、児童ポルノ被害者の約3人に1人は男児、というニュースについて書きました。
児童ポルノに限らずとも、幼い男児も性被害にあうことがあるとも書きました。

今回加害した球児の中にも、被害経験のある男子はいるかもしれません。
いないかもしれません。わかりません。
でも、いるだろうという方向で認識しておいたほうが妥当だと思います。
日本は現状、そういう社会ですから。
「性被害経験はないけど、ちっちゃいときに痴漢されたことならある」とか、そういう男児もいるのではないでしょうか。

今回の加害者の中に、たとえば稲村氏と同じ年代の女性からの被害経験のある球児がいたとして、それを理由に、加害は免罪されると思いますか?
私は、しないと思います。

直接触らなければ暴力ではないとか、ツイッターで書くことは加害ではないとか、私はそういうスタンスもとりません。

ツイッターなどインターネット上で書くということは、内心で思うこととは別です。内容によっては、十分な加害と思います。

どんな理由があっても、彼らの加害自体を「しかたないよね」と完全に許すことはできません。

彼らに許さないことを自分に許すのは、甘えです。
しかも相手は子どもであり、私たちは大人です。
私たちのほうが社会的な力を持っています。
非対称性があります。

男女、というくくりを見たとき
そこには力の差、権力差、発言力、資本力、
様々な差があり、非対称性があります。
腕力で言えば、中学生男子と成人女性では、中学生男子のほうが強いケースがほとんどでしょう。

しかし、それでも
大人と子どもとでは、社会的な差があり、
私たち大人は社会的には強者です。
男女の社会的構造の非対称を言う以上、大人と子ども、という非対称についても考えるべきです。

ある切り口で見た時に弱者であったりマイノリティであったりする自分が、
また別の切り口でみれば強者であったりマジョリティであったりすることって、普通にあります。

私やあなた、性犯罪被害者は、しかし未だこの日本社会では弱者であり、マイノリティでしょう。
でも、その構造を覆せていない、
球児たちを加害的マジョリティのレールに乗せながら成長させてしまった、その社会を温存してきているのは、私たちも含めた、大人です。

私、いわゆる”体育会系”の文化には、少なからず今回のような加害を生み出す要素がああるのでは、と思っています。
彼ら球児は、その枠組みの中にいますね。
ではその枠組みを作ったのは彼らですか。
いいえ、私たち大人です。

被害者である私たちには、日本の性加害的文化・社会に対して一切の責任はないと思いますか?
そう考えている人もいるかもしれません。
それが間違っているとも断言はできません。
しかし私は、私も、責任者のひとりであると考えています。

中学生は、子どもです。
身体がどれだけ発達していても、そして思考力がどれだけ鍛えられていたとしても、子どもです。
個人を見れば、
大人なんかよりずっと様々な経験をして生きてきている、すっかりしっかりした子・能力も判断力もある中学生だっているでしょう。
でも、そういう個人がいるということは
大人/子ども間に一般的に存在する社会的な非対称を無視する理由にはならないと思います。

社会的非対称があることを以って、たとえば個人間にある腕力差がなくならないのと同程度に。

大人は、社会に対しての責任者です。
子どもではなく、大人こそが責任者です。
子どもたちに対して責任を持つべきは、私たちです。

彼らを大人と同じに扱うことはできません。
なぜなら彼らは、大人ではないからです。

私たち大人は、社会的に、大人と同じだけの権限を子どもには与えていないでしょう。
それひとつとっても、彼らと我らとの間には不均衡があるんです。

自分を踏みつけにしている、多くの足が履いている下駄を脱がせようと思うとき
私は自分がはいている、脱ぐことの難しい下駄についても無視をしたくないです。
だって、下駄を履いている側はいつだって、自分が履いている下駄についてはなかなか自覚できないんです。
構造って、たぶんそういうものなので。

もちろんこれは、被害者はいつも清く正しく美しくいなければならない、という話ではありません。

ただ、殴る方向を間違っていると見えたら、私はそのことについては「違うよ」と言いたいと思っています、という話です。

どうしたって大人であるという事実、もそうだけど、私にとってはこれも、自分の被害に向き合うということの一つでした。

ごめんね。

 

以上、だらだらと書きました。

最後になりますが
これは「球児たちからの直接的被害者ではない私たち大人」のことを想定して書いたものであって
稲村氏に求める姿勢ではありません。
彼女に求めていい姿勢ではありません。

球児らを訴えるべき、強く抗議するべき、なんて要請・要望を彼女に出してはいけない、と私は考えていますが
もちろん
「騒ぎにするべきではない」
方向での抑圧・規範・二次加害にあたる風潮は唾棄すべきものと思います。
「大人の女性らしい抗議のお作法」みたいなものも、うんこ食えです。

連盟は謝罪文を出したようですね。
こんな暴力があってもそれを問題にせず試合を実施し、終え、稲村氏と写真撮影までした理事たちもいたという情報も見ました。

どうか厳正な処分がなされますように。
稲村氏および怪我をした球児たちに保障がありますように。
そして、2度とこのような事態を引き起こさないよう体制が作られますように。

 

お読みいただき、ありがとうございました。

やまママ

『これからの性教育を考えよう』というnoteのマガジンを作っています。
ゲストがめちゃくちゃ豪華なので、ぜひご覧ください〜!



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