“毒親”への感謝と、“毒母”という言葉について思うこと

dokuoya_dokuhaha_main 毒親・虐待・機能不全家庭のtips
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毒親、また毒母という言葉に対して思うことを、毒親・虐待親・機能不全家庭育ちママの視点から書きました。

 

こんにちは、やまママです。

育児って日々子どもに向き合うだけでも一苦労ですが、
子育てってどうしたって、自分が育ってきた家庭や環境についても向き合わなければならない瞬間が
わりと頻繁に、訪れます。

私はいわゆる機能不全家庭育ちで、親が毒親でした。
つまり、虐待親でした。

親と同居はしていないので、
いまは大変楽しく、お気楽に過ごしてはおりますが
折に触れて、毒親育ちママって精神的ダメージを食らうことが多いんですね。

”毒”のせいで、何もなくても毎日何かがすり減っている、みたいなことだってあります。
「気づいたら累積ダメージが大変なことになってたよ!? いつの間に!?」みたいな。

今日は、
そんな日々を乗り越えるために、
毒親育ちママである、なんだか仲間とかもう言っちゃってもいいんじゃないかな? っていう人たちと語り合える言葉を持つために、
って思いながら書いた文章のご紹介です。(以前コチラで書いたものの転載)

“毒親”への感謝と、“毒母”という言葉について思ったこと|佐原チハル(アジールワークス)|note
毒親、という言葉に思うこと 「私の親は、毒親でした。」 こう言葉にし、書けるようになるまで、ずいぶんと時間がかかりました。 「私は虐待被害者です。」 これだって、今なら書けます。 けれどどちらの言葉も、口に出して言うことはまだできません。 それでも私は、かつて自分のおかれていた環境を、あらわすことができるよ...

※チハルさん、というのは私、やまママのことです……へへ^^;
 

毒親、という言葉に思うこと

私の親は、毒親でした。」

こう言葉にし、書けるようになるまで、ずいぶんと時間がかかりました。

「私は虐待被害者です。」

これだって、今なら書けます。

けれどどちらの言葉も、口に出して言うことはまだできません。
それでも私は、かつて自分のおかれていた環境を、あらわすことができるようにはなりました。

数年前、20代の終盤。
ツイッターで「うちの親は毒だった」と書けるようになりました。

物心ついて以来、人生の大部分は
私が私自身に対し、「被害者」と言えるようになるために費やされてきました。

そして、そう言えるようになった契機として
“毒親”という言葉が普及した意味は、きっととても大きかった、と思っています。

※ 自分語りが多いです。「結局何が言いたいのよ」と思った方は、「6、」の段落までスクロールしてください。

 

家族について幼いころは、ただ「嫌だな」と思っていました

もう少し大きくなると、“周りのおうちは違う”ことを知り、自分を異質だと感じるようになりました。
それから間も無く“妹は違う”ということもわかって、自分を異物と認識するようになりました。

これは小学校入りたてくらいのことなのですが、
この頃にはもう私の人生において、たとえば「親に甘える」「親に頼る・相談する」というような選択肢は消えていました。
私にとっての家族はすでに、
恐怖で、憂鬱で、面倒で、支配者で、首にきつく巻きつけられた縄であり、枷であり、呪いでした。
私を守ってくれるものではなく、むしろ私は家族から、自分の心身を守らなければなりませんでした。

小学校高学年のころ、家族とは別のところで
私は手酷い被害を受けました。
もちろん家族には言いませんでしたが、ひとりで抱えておくにはその荷は大きく、重すぎるものでした。
あまりにも重いので、縄跳びで首を締めてみたり(失敗しました)、手首を切ってみたり(失敗しました)、飛び降りや飛び込みを画策してみたり(これは実行にはうつしませんでした)、
もしまた加害者にあったら一矢報いることくらいはしてみようと、カッターなんて脆弱なものを持ち歩いたりする日々が続きました。
家もダメ、家の外もダメだと
小学生には、なかなか生きる場所がないのですね。

そうした願望がなくなったのは、担任からもらった手紙がきっかけでした。

そこには、
「最近チハルさん、様子が変わりましたね。明るく、正義感に溢れていたチハルさんはどこへ行ってしまったのですか?
先生は失望しました」
と書かれていました。

「失望はこっちのセリフだよ!」と思いました。

あまりにも酷いものだったので、この時の手紙は
今も捨てずにとっておいてあります。

酷すぎたおかげで逆に、「もうどうしようもないな」と諦められたのだと思います。

私はこの後、随分と長い間「自分はもう死んだようなものだ」「私の人生はすでに終了しています」「いまは余生」と感じながら過ごしていました。
積極的に死に向かう意欲も失せ、偶然死ねたら「はい、おしまい」。
その程度の価値でした。

この教師の言葉に絶望できたことは、私の“運の良さ”のひとつだったと思います。
おかげでどっこい、いまは毎日、楽しく生きています。
(ただしあくまで結果論ですし、私にとっては運がよかった、というだけです)

そんな中で、父は相変わらず私を支配し、
母は相変わらず私のせいで殴られ、傷つき、母自身と妹とを守るため
私に父の「駒になれ」と言い、差し出しました。

中学に入った頃、
母の「顔だけは殴らないで」と泣き叫ぶ声や、(父は母の望み通り、顔だけは殴りませんでした)
父の怒鳴り声の異様さについては、近所にはおそらく知られていました。

また私が、どうしても家に帰るのが嫌で
部活後の夕方、真っ青な顔で徘徊じみたことしているところは
何度か友人の親に見つかっていたし、
部活の友人の母親の中には、私が父親への恐怖や拒否感のせいで泣き出し、過呼吸の発作が起きてしまったときなどに、介抱し、抱きしめてくれたような人もいましたから、
ある程度の周囲からは、うちの事態について、勘付かれていたのだとは思います。

通法も通告も、してもらえたことはありませんでした。

「まぁ、知っててもみんなそんなもんだよね」
と失望してもいたし、けれどその一方で
「私の家がこんなに異様であることは絶対に隠さなければならない、バレれば死ぬよりも恥ずかしい思いをすることになる」
というような気持ちも抱いていましたので、
私自身は、なんとしても隠し通そう、と思っていました。

気づいてくれなくて失望しているのに、気付かれたくなくてもがいている。
矛盾した感情だとも思いますが、感情の話なのですから、矛盾が共存できていても不思議ではない、とも思っています。

 

私の運の良さ、その2は、祖父母の家が近かったことにあります

中学校からの帰り道、しばしば遊びに行っては
縁側でただ、ぼおっとして過ごしました。
この時間だけは、呼吸できている、という心地がしました。

私がそこで呼吸するために、祖父母には
「うちの現状が知られていない」ことが重要だったので、
やはり相談はできませんでした。
むしろ絶対にしたくない、と固く思っていました。
命綱だったと思います。

たとえば「尊敬している人・男性部門」ランキングとかを作るのであれば
私が夫以外にあげられる人物は、祖父だけです。
消防士で、救急車の人でもあって、赤ちゃんを緊急で取り上げたり、DVで逃げてきた親戚をかくまって夫を追い返したりしていました。
声を荒げたところは、一度も見たことがありません。
ただただ穏やかで、優しい人でした。
趣味は散歩と、1日に3本だけのタバコ。
セッタの匂いに親しみと懐かしさを感じるのは、祖父の影響です。

なお祖母は、三味線と唄の先生をしていて、着物を愛する自由な人でした。
よく、お味噌のおにぎりや白玉団子を作ってくれました。
祖母にはどうか、これからも長生きしてほしいです。

そんな祖父母の家に通う日々は、高校受験が近づくまで続きました。

 

私の運の良さ、その3は、本が好きだったこと。

受験が近づき、当然家にいたくない私は、休日をはじめ
隙を見つけては図書館へ通うようになりました。

そしてそこで、本を読むようになりました。
“家族”や“女性問題”とタグの付けられた棚のものを、片っ端から。
自転車で行ける範囲内には、小さな分館も含め、4つの図書館がありました。
受験期だけでなく、その後私は高校2年生くらいまでの間で
この4つの図書館の、該当棚の本を読み深め続けました。

知識は貴重でした。
頼れる大人はいなくても、語り合える人がいなくても、
私と同じような想いを抱き、似たような経験をし、生き続けている人がたくさんいるのだと知ることができました。
認識する範囲を少し広げてみれば、私はひとりぼっちでも異物でもなく、
むしろよくあるケースの一例でしかありませんでした。
異例ではない、という事実は、私の助けになりました。

なお、高校時代は素晴らしいものでした。
家から距離があり、家にいなくてもよい時間が増え、
また、その高校自体がとてもよい場所でした。

その頃の私はすでに、あらゆる“支配”や“束縛”を極端に嫌っていました。
ルールの根底にあるのが「生徒の自主性にまかせる」というもので、
髪型も服装もピアスをするもしないも完全に自由で、
ついでに23区内なのに広々としていて人口密度が低く、閑静な住宅街にあり、緑の多いその学校は、
古くて汚いけど最高でした。
教師もよかった。
放置ではなくて、生徒の自由、意思や意欲、興味・関心を積極的に守ろうとしていたように思います。

友達もみんな、なんというか大人で、
たとえば意見を戦わせることと喧嘩することとの違いとか、
価値観にはそれぞれ違いがあることとか、
蹴飛ばしていい規範もあれば、守らなきゃならない矜持もあることとかを、
なんとなく知っているような子が多くて、
今でも時には連絡をとりあう、尊敬できる友人たちに恵まれました。

竹割ってチャリで運んできて保健室前の水道で流しそうめんとか、
校内に宅配ピザ呼ぶとか、
料理屋やってる子が公園に大鍋持ってきてくれておでん大会とか、
いろいろ楽しかったです。

そんな環境に恵まれた中、私の“知識蓄え”期は続きました。

そして高3の夏休み、私は2人の少女に出会いました。
人身売買被害にあい、生還した少女たちです。
詳しくは語りませんが、私はそこでまた
救いにはならない、しかし善意の大人たちとの断絶を見ました。

家族には“愛”があるのが当たり前で、
“愛”があれば間違った扱いをするはずはなくて、
親子であれば、話し合えば、必ずわかりあえ慈しみあえるに決まっている、と信じられる人たち。
その言葉を、裏切られ踏まれて続け、
けれど「救い出された私たちは運がいいから」「このことを伝えたくて」と、ついに海を渡って語りにきてくれた、たった13歳・15歳の少女たちに向けた大人たち。

大学には行かないつもりでした。
家を出て働こう、と思っていました。
親からは「大学に行かないなら見合いをして結婚して男の子を生み、家を継がせろ」と言われていて、
最初はお前が家を継げと言われていたのですが、拒否し続けた結果そこまでの妥協に至っていたので、じゃあそこで手を打とうか、などと思っていたのです。
産んだ後は、私自身はどうでも好きにしていいとも言われていたし、
金をため、ともかく産んだら去ろう、それでおしまいにしよう、と思っていたのです。

生家に渡す男の子のことは諦め(男の子でさえあれば、父はきっと大事に育てるだろうと思っていました)、できることならほかの子どもたちと、もしくは、それがかなわないならばひとりで死ぬまで生きていこう、と。(子どもは欲しかったけど、結婚は絶対にしたくなかったのです)

今から思えば、心底現実感のない、そして引き渡すつもりであった”男の子”に対して、ひたすらに残酷な考えだったとも思います。しかし、それが当時の私の精一杯でもありました。

でも、断絶との再会で、「学びたい」という意欲が増幅しました。

私は、知りたかったのです。
こんなに深い断絶が起こり得るほど、親子・家族間での“愛”が一般的で、
目の前に現実や事実を突きつけられていてさえ、自分たちの残酷さに気付けないほど“善意”と“愛”に溢れた大人たちの多いこの社会で、世界で、
なぜ私たちは、あんな目にあわなくてはならなかったのか。

この頃には、もう「私は」とは思っていませんでした。
なぜたくさんの「私たち」は、こんな環境におかれ、こんなに苦労し、こんなに救いがなく、こんなにも苦しいのか。
どうしてそうなってしまうのか。

親からは、大学に行くのであれば六大学以上で、浪人は認めない、という条件を出されていました。
学びたいことが学べないのであれば、大学に行く意味はありません。
けれど幸いなことに、図書館で読んだ本のうち、特に心に響いたものを書いた人が某六大学の教授であり、
「この著者のいる大学に行きたい」と思える場所を見つけられていました。
(あとは資料をとりよせ、シラバスなど出来る限りで徹底的に調べ、検討したりもしました)

そして、これもまた運の良いことに
私は学業において点数をとることが苦手ではなく、その大学のその学科は、模試でも判定はほぼ常にAかBだったので、入学への不安もほとんどありませんでした。

そうして、私は大学生になりました。
行き先は福祉学部でした。

 

大学に入れたことが、決定的な転機になりました。

福祉学部とはいえ、“手に職をつける”という視点よりも(資格取得のために必要なカリキュラムはもちろん一通りありましたが)、
主眼が”学ぶ”というところにおかれていましたので
ずっと知りたい、学びたいと思っていた知識を、存分に深めることができました。
独学で知識を取り込んでいたときとは違い、体系的に取り入れることができたのは、やはり大きかったと思います。
自分を意識的に客体化することで、その位置を認識することができました。

知識として、私は被害者であると認識しました。
そして、どんな理由があろうと
私が受けた扱いは不当だったのだと、理解しました。

私がそういう目にあったのは、単に運が悪かったからでした。
単にそこに私が産まれ、もしくはそこにいて、
その同じ場所に、加害者もまた同時に存在してしまったから。
それだけのことでした。
また被害の大きさは、事象で単純にははかれないということも知りました。
「私なんてまだマシ」
「この程度で被害と言うなんて大げさでは」
なんて、考えなくていいのだと知りました。

けれど、実感ではありませんでした。
知識として理解しても、まだ。
理解と実感との間には、時差が生じ得るのです。

 

その後はブラック企業の社員になり、 しかしブラックなのですぐに辞め、 半年ほどホームレス(広い意味で)になり、 全財産84円の危機を乗り越え、季節労働者を経て、 縁あって、あまり類のない職場の人になりました。

“家族とは関係ないところで被った手酷い扱い”をきっかけに
性教育、そこからHIV/エイズに関して啓発する非営利活動チームを作り、ちょろちょろと活動などしていた私は、
その時のご縁で、その関連の仕事に就くことになったのです。

つくづく、運のいいことでした。

ホームレス(広義)時代には、たくさんの人が助けてくれました。
私の人生を支える1冊を書かれたライターさんとお会いし、お話しさせていただいたこともありました。
(そのときの気持ちがきっかけで、本業の傍ら、ライター仕事も始めたのでした)
(それが今でも続いているのだから、人生ってすごい)
無職のぺーぺーだった私を見つけ、拾って職場を与えてくれた人がいました。
その後
ブラック企業時代に出会った夫と結婚し、妊娠し、妊娠を機に“里帰りできない”現実を前に、過去を振り返る中で
私はついに、
毒親
という言葉に出会ったのでした。

 

そして、いま。

私はもう、虐待というのは
「たかがこんなことで」って言わなくてもいいもので、
日常的に、いたるところでおきているもので、
誰にだってしてしまう・されてしまう可能性のあるもので、
ともかく、思っていた以上にありふれたものだ、ということを知っていました。
被害者には一片の落ち度もなく、
被害経験は、被害者の何を貶めるわけでもない、ということも。

知っていて、それでも
私は自分を「被害者」にすることができませんでした。

私は虐待被害者だった。
とは、書けなかったのです。
もう、単純に、辛くて。

私の何が穢されたわけではない、それでも
絶対に返ってはこない時間や、2度と取り戻せないもの、失われたままのもの、依然として完全に自由にはなれていないこと、
絶対に絶対に取り返しのつかない、手に入れられずにいたものが大きすぎて、
怖くて、
認めてしまったら、またもとのみじめさの泥の中に埋められてしまいそうな気がして、できなかったのです。

わかってはいても、できなかった。
自分が被害者だと認めること。
そう認めることは、
私が人間として生きていくためのプライドを、大きく損なうことのような気がしていたのです。

プライドは、尊厳です。

自分が人間扱いされなかったこと、軽んじられていたこと、ただ使われ利用されるためだけの存在だったこと、
私の子ども時代は絶対にかえってこないし、取り戻せないし、やりなおせないということ、
その程度の命だったこと。
それを認めるのが、ただひたすらに、怖かった。(そしてそれは、いまでも)

でも「毒親でした」なら、言えました。
なぜならこれは、私のことではなかったからです。
私自身ではなく、親に対して言及していた言葉だったからです。

「虐待」という仰々しく感じられる言葉ではなく、
親を法的・社会的に弾劾する負担を強いられることもなく、言えました。

親を「虐待者だ」ということは、特に子ども時代の私には、ずっと荷の重いものでした。
言ってしまったら、家庭を壊してしまう。
そう思っていました。
とっとと壊れて欲しい家庭ではありましたが、
世間的には「酷い、わるい、悲劇」とされている「家族を壊す」という結果を自分が引き起こすという、
その荷が重かったのです。
なんで被害者である自分が、そんな重みまで背負わなきゃいけないんだ、という憤りも、ありました。

虐待という言葉を使わなければ、
その重みを背負わずにいられるような気もまた、したのでした。

毒親、と言えるようになって、
「どのように毒かと言えばこういう虐待をする人で……」と、
回り道しながら、
私はやっと、ついに、虐待という言葉をもまた使えるようになりました。
虐待という言葉への壁が少しずつ削られて、
やっと私は、自分を「虐待被害者」と書けるようになったのです。

毒親、という言葉のおかげで、
私は私を規定する言葉を、取り戻すことができました。

「毒親」という言葉が「軽くていいね★」と扱われ、
感じられる重みの違いから、またも断絶の深さを思い知り、苦しくなるようなこともあります。

それでも、貴重な言葉だと私は思っています。

“支援者”の中には、この言葉を嫌う人もどうやらいるようで
「そういうのは虐待なんだから、虐待って言うべき」という論があるらしいこともまた知っています。
(ツイッターで、そういうリプをされたことが何度かありました)

これに関しては、支援者としての教育を受けた身としては、逆に
知らんがな
としか言えません。

支援者側の都合を被支援者に押し付けてくるようなら、その人はもう、支援者の看板をおろしたほうがいい
そういうすり合わせが必要だというのなら、支援者側でどうにかするべきなのです。

……と、こういう風に考えられるようにもなるのですから、
支援者としての勉強もしておいてよかったです。
福祉学部よ、ありがとう。

ともかく、毒親という言葉。

この言葉を発明してくれた人に、私は感謝しています。

この言葉は、私の助けになりました。
この言葉は、私が私自身を捉え、規定するための力になりました。
ありがとう。

私は私になれました。

 

毒母、という言葉に思うこと。

 

ここまでの文章が長すぎるせいで、おまけのようになってしまいました。
けれど大事なことと思うので、こちらもここで記載しておきます。

毒親、でいいはずなのに
毒母、という言葉がまず流行したことに対し、私は
「さすが女に厳しい国・ジャパンだな」と思っています。

行為者が父親であれば、毒も毒と見なされず、むしろ“古き良き時代の父親らしさ”と褒められたりすることもある世の中なのになぁ、とか。
そもそも子どもにかかわる時間や頻度が、圧倒的に母親の方が高いんだから、母親の方ばかりが目立つのも当然なのに、また父親の存在は無視して母親のことだけ言うのか、とか。
「子どものあれこれはだいたい母親のせい」にしたがる風潮のこととか。
そもそも、そういう風潮があるから母親を追い詰め、“毒”属性にしているのかもしれないのに、そこは無視して闇をさらに深める気かよ! とか。

いろいろ、思ってはいるのですが
さすがにもう長すぎるので、この記事ではここまでにしたいと思います。

つらつらと自分語りが続くばかりでしたのに、
ここまでお付き合い頂いた方、
読み飛ばしてもここまでたどり着いてくれた方、
みなさま、ありがとうございました。

どっこい生きてますし、楽しいので、
いまの私はだいたい大丈夫です。

もしこれを読んで、なにかしらを想ってくれる人がいたのであれば、
その人にもまた、きっとなにか楽しいことが起こりますように。

毒も吐きつつ、やっていきましょうね。

おわり。

 

<<今日のtips>>

「毒母」という言葉に脅かされることもあるけれど、「毒親」という言葉は自分の中のモヤモヤや鬱屈や、過去を言語化するのにとっても便利。

毒親持ち、虐待親持ち、機能不全家庭育ちだといろいろあるけど、どうにかこうにかやっていきましょう……!

 

お読みいただき、ありがとうございました*^^*

 

やまママ

こちら、「”毒親”について知りたい!」と思った時にオススメの書籍『毒になる親』です。

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